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Tue Dec 2 04:00 PM
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◇Y1997年末、アメリカでは1300社を超すバイオベンチャーが活動しています。
欧州もこの3年ぐらいのうちに500社ほどだったのが1000社を超えるところまで増えました。
ところが日本ではバイオベンチャーは1社もありません。
ここ数年のうちに登場してくるかというと、そういう動向も見えません。
そういう中で、サイエンスのあり方、医学のあり方、それをサポートする環境について思うところをお話しいただければと存じます。
まず、日本でなぜバイオのベンチャーが起こらないのか。
このことをどうとらえておられます一方、A・c(1959年ノーベル生理学医学賞)が1995年に出した『輝く二重らせん』の巻頭で、「1993年には2222社で従業員は8万人……」と書き出しています。
入り方がまさに符合しているのです。
これはどういうことか。
彼らは産業としてのバイオベンチャーがいかに重要かという認識を大学人として持っているということです。
では日本はどうか。
A先生やK先生は別として、冒頭からバイオベンチャーの話をする先生はおそらくいないと思います。
アメリカでは、ノーベル賞受賞者に限らず大学の先生方のスタンスは「メイクマネー」なんですね。
自分の研究がいかに社会的に価値があるか、社会や企業が利益やお金を生んでくれるか、社会に奉仕できるか、社会がそれに対して歓迎してくれているかを考え、そこからメイクマネー、つまりその研究がいかにお金を生み出しうるかを強く意識している。
ところが日本の大学の先生方は「テイクマネー」で、自分の研究は立派だからオレのところに研究費を出すのは当然だ、というスタンス。
そこで終わってしまって社会還元しようという気はない。
産業界のほうも、大学に研究費を出しても、会社さらには社会にフィードバックするだろうという期待をほとんど抱いていない。
そのへんが日米のベンチャーマインドのいちばんの違いではないかと思います。
◇Yサイエンスに取り組む場合、アメリカの大学人は自分の研究の価値そのものを考える。
日本の先生方も考えていないわけではないのですが、それが前面に出ない。
なぜそのような違いがあるかということですね。
特にアメリカでは、研究が生む経済的価値を予想できるベンチャーキャピタリストがいますから、先生方と一体になって取り組むわけです。
A先生はよく「アドベンチャー」という言葉をお使いになりますが、私の基本認識は、ベンチャーの前に常にアドベンチャーの段階がある、ということです。
アドベンチャーの段階は科学的コンセプトであり、実験室で生まれたデータでもある。
たとえば、ある因子(ファクター)をブロックすればリウマチが治るかもしれないというコンセプトが出たとしましょう。
この段階で、お金(リスクマネー)を付けてくるベンチャーキャピタルやベンチャービジネスがあり、実験室でデータを取って、それを薬として人間への応用につなげていこうと考える。
ただし、そこは非常にリスクが高い段階であることは間違いない。
ですからアドベンチャーの段階というわけですね。
A先生、このあたりはどう思われますか?。
いま先生方が進められている研究の中でもいろいろなコンセプトがありますね。
それを疾病治療に結びつけていこうというプロセスがあってしかるべきで、その部分が結局はバイオベンチャーが果たす役割ではないかと思うのですが。
またそこにお金を付けるのがベンチャーキャピタルの役割ではないかと思うのです。
日本にはそこがもう1つ欠けているのではないか。
◇AA・cを含めてバイオテクノロジーの最も基礎的な技術を開発した人々に関して話してみます。
これらの研究者とバイオテクノロジー産業の現在の関係からみて、N先生が言われたように、社会への還元やバイオベンチャーと絡めた総括の仕方をするのが一般的です。
しかし私がはじめて会ったときのCは、かなり違った認識を持っていました。
彼は、研究はおもしろいからやるのであって、その応用のインパクトについて考えたことはあまりなかったと言っています。
バイオベンチャーはエレクトロニクスよりもあとに起こりましたが、それ以前の製薬企業はアメリカでもヨーロッパと同じく伝統的な形、すなわち産と学があまり密着しない形で存在していたのではないかと思います。
アメリカのバイオベンチャーはいかに誕生したかCは医者の出身で、ユダヤ人として医学部に入学を許された最初の人です。
自伝の『それは失敗ではじまった』で述べているように、ユダヤ系の人は1930年代までビジネスにも医学界にも進出できなかったそうです。
そういう中ではじめて彼は入学を許され、医学の世界に入ったんです。
肝臓にジルベルト病という病気がありますが、肝臓の研究をしていた学生時代に彼はユダヤ人だからフェローシップ(奨学金)をもらえず、ずいぶん差別されたということが自伝に書かれています。
ところが、彼が学生時代に発表した論文がおもしろかったので、当時この分野の大家といわれる人がわざわざ会いに来てくれた。
学長はユダヤ人のCが大嫌いだったらしくて、この偉い大家は当然学長である自分に会いに来たのだと思って「ウェルカム」と言ったら、「私が会いに来たのはCだ」と。
大家は学長がいちばん嫌っていた学生に、いいものはいいと言ってくれたんです。
そんなエピソードがあったそうです。
そののち彼は医師になるわけですが、軍隊に入り軍医にならねばならないときに、「おまえはここで研究すれば軍人にならなくてもすむ」ということでNIH(米国立衛生研究所)に入ったわけです。
そこから基礎科学のおもしろさに目覚めた。
それから後の彼の人生は、1940年代から70年代に至るまでは、30年Cは、アメリカの特徴としてNIHのファンディングシステムと、お金の出し方をあげています。
身分、国籍、年齢、性別により差別をしないで、研究者がおもしろいと思ったことに資金を与える、しかも、これを独立の若い研究者個人に与えるのがNIHのファンディングシステムです。
Cをはじめアメリカの研究者たちはこのシステムにより大きな支援を受けた。
だからCは、そういうおもしろいと思うものに政府のお金を付けるのがアメリカの強さだと言っています。
これがバイオベンチャーを育てるアメリカの強さの遠因です。
ですから彼自身もNIHのグラントシステム(研究助成システム)をつくるのに寄与したことに誇りを持っている。
当時NIHにはCを含め3人の医者出身の研究者がいましたが、そういう自由なグラントをつくるために働いた。
しかもこのグラントはNIHを超えて全米の大学や外国の研究者にも配分できるわけです。
彼はこのNIHグラントによりずっと研究をやってきてノーベル賞もとったし、バイオテクノロジーの基礎を築いたわけです。
実際には研究がおもしろいからやってきたので、何に役に立つというのは、実はあまり考えたことはなかった。
それが1970年に突然に思いがけなくこれは技術としても使えるということが認識されたのがバイオテクノロジーです。
近く一貫して自分がおもしろいと思うことをやってきた。
アメリカ政府はそこをサポートしてくれた。
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